「コーヒーは文系だ」を考えると・・・
「コーヒーは文系だ」 というカフェテナンゴの流行りの言葉について考えてみる。 コーヒーを軽量器具を使わずに感覚で淹れることなのか? だとすれば、軽量器具で全てを計測して抽出すると理系なのか。 なんとなく、わかるような、わからないような。 そもそも、文系と理系の定義をはっきりさせていないのでしょうがない。 先に言っておくと自分は 「コーヒーは文系(寄り)だ」 と思う。 「どうすれば美味しいコーヒーを淹れられるのか」とか、「みんなが美味しく淹れるには」と考えると数値化して基準を作ったり、分かり易くしようという方向になるので、数字が出てくるのは仕方ない。数字や理論である程度は理解しようとしないと検証したり、人に伝えるのはむずかしい。 コーヒーの栽培や精製方法の過程でも少なからず、理論と数字は活用されているだろう。 ここが「コーヒーは理系だ」のところ。必要不可欠なもの。 では、「コーヒーは文系だ」のところは? 「美味しいコーヒー」そのものだと思う。何をもって美味しいとするのか。すっきりなのかしっかりなのか、苦みか、酸味か。それは人それぞれで、そのコーヒーを飲む場所、体調、感情で感じ方が変わってしまう。ここは数字だけでは制御できないところ。 それはコーヒーを淹れる人にも関係していて、焦って淹れたコーヒーは焦った味になる。それは焙煎においても同じだといえる。 だから焦らない、いつでも落ち着いた気持ちでいることの重要性。 日々の気持ちの在り方。それはもうコーヒーという枠を超えた思想の世界かと。 「コーヒーは文系寄りだ」 測ってデータをとるもよし、気楽に淹れるもよし、動画にするもよし。美味しいも、失敗したも含めて、楽しむことが一番だと。つまり、 「コーヒーはエンタメだ」